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私、辞めてもいいですか

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登録ボタンを押した、夜勤明け

読了 約9毎週金曜 朝6時語り: カンゴさんフィクション

主任との「相談」は、五分で終わった。

「来月は、無理」

主任は、シフト表から目を上げずに言った。

「人がいないの。ゆいちゃんも知ってるでしょ」

知っていた。

「再来月なら、考える。四回にできるかは、約束できないけど」

それから主任は、初めて私の顔を見た。

「でも、言ってくれてよかった」

その一言で、泣きそうになった。

なのに、主任は続けた。

「ゆいちゃんが辞めたら、もっと回らなくなるから」

優しさと鎖は、同じ声で言われることがある。

言ってくれてよかった、は本当だと思う。

辞めたら回らない、も本当だと思う。

二つとも本当だから、私は動けなくなる。

家に帰って、スマホを開いた。

「看護師 夜勤少ない 手取り」

「看護師 給料 比較」

あの夜に残した検索履歴は、まだ消していない。

その先に、押していないボタンがあった。

「無料で登録する」

検索は、誰にもばれない。

登録は、私が私だと名乗ることだ。

それは、主任の「回らなくなるから」を裏切ることに思えた。

私は、スマホを伏せた。

同期のあかりが辞めてから、何ヶ月か経っていた。

見送った日、私は上手に笑えた。

本当は、先に降りた人が羨ましかった。その一言だけは、いまも誰にも言えていない。

登録するというのは、あの日に飲み込んだ気持ちを、自分で認めることに思えた。

ちひろは、同期だ。

同じ年に入って、隣の病棟に配属された。

夜勤明けの朝、更衣室で会った。

「コンビニ行く?」

イートインの窓際で、ちひろはからあげクンを一つくれた。

「ゆい、最近、顔が夜勤」

「顔が夜勤って何」

「明けの顔のまま、日勤してる感じ」

笑った。笑えた自分に、少し驚いた。

「あのさ」

私は、からあげクンの袋を見ながら言った。

「転職サイトとか、登録したことある?」

ちひろは、少しも驚かなかった。

「半年前に」

「え」

「まだいるよ、私」

からあげクンが、喉で止まった。

「登録したら、辞めるんだと思ってた」

「私もそう思ってた。だから半年、ボタンの前で止まってた」

ちひろは、コーヒーを一口飲んだ。

「でも、登録して分かったことがある。うちの病棟の残業、平均だった。給料も、平均のちょっと下」

「ちょっと下なのに、なんで平気なの」

「ちょっと下って分かったから、腹が立たなくなった」

「なんで」

「『こんなもんか』って思えたから。それまでは『私だけ損してる』だった」

損しているかどうかは、比べないと分からない。

比べないまま怒っている時間が、いちばん体に悪い。

「誰かに言った?」

「言ってない。言う義務もないし」

ちひろは、当たり前みたいに言った。

「私の給与明細を主任に見せる義務がないのと、同じでしょ」

「電話とか、かかってこない?」

「名前と電話番号を書くのは、まだ早い気がして。メールだけで始められるところにした」

ちひろは、からあげクンの最後の一個を、私の袋に押し込んだ。

「登録は、辞めるって決めることじゃないよ」

「じゃあ、何」

「私は、決めるために登録した」

次の夜勤の休憩室で、カンゴさんにちひろの話をした。

カンゴさんは、金平糖を口に放り込んで言った。

「ちひろちゃん、ええ看護師やな」

「え、登録の話ですよ」

「せやから、ええ看護師や言うてるんや」

意味が分からなくて、黙った。

「あんたな、患者さんが退院したい言うたら、何する?」

「……退院後の環境を、確認します。家族とか、住まいとか、通院できるかとか」

「せやろ。行き先も見んと、退院させへんやろ」

「はい」

「ほな、自分はなんで、行き先も見んと『辞めるか残るか』だけで悩んどるんや」

言葉が、出なかった。

「逃げ道を持ってる人のほうが、ちゃんと残れるんやで」Xで引用

「逃げ道のない人は、残ってるんやなくて、閉じ込められてるだけや」

カンゴさんは、袋の口を折った。

「閉じ込められてると、優しさまで削られることあるやろ」

「まだ、大丈夫です」

「大丈夫なうちに、行き先見とき」

言葉が、しばらく机の上に残った。

「登録は、裏切りやない」

カンゴさんは、私の手のひらに金平糖をひとつ落とした。

「自分を、担当患者にするっちゅうことや。バイタル取って、記録して、行き先を見る。それだけや」

夜勤明けの、朝六時二十分。

病院の裏の公園のベンチに座った。

家まで、歩いて八分。その八分を、今日はまだ使わなかった。

朝の光は、明けの目に少し痛い。

スマホを出した。

検索履歴の、いちばん上。

あの画面。

メールアドレスを入れる欄が、ひとつ。

それだけだった。

名前も、電話番号も、いらなかった。

親指が、止まった。

主任の「回らなくなるから」が聞こえた。

夜中の三時に「ありがとうね」と言ってくれた患者さんの顔が浮かんだ。

母からのLINEは、まだ未読のままだった。

登録しても、明日も出勤する。

登録しても、点滴は同じ速さで落ちる。

登録しても、あの「ありがとうね」は消えない。

変わるのは、ひとつだけ。

私が、選べる人になる。それだけだ。

押した。

「登録が完了しました」

それだけだった。

ファンファーレも、鎖の音もしなかった。

世界は、何も変わらなかった。

私の中に、椅子がひとつ増えただけだった。

座らなくてもいい椅子。でも、あると分かっている椅子。

私は、そのままLINEを開いた。

三日間、未読にしていた母のメッセージ。

「元気にしてる? 無理してない?」

いつもなら「大丈夫だよ」と打つ。

今日は、違う言葉を打った。

「ちょっと疲れてる。でも、ちゃんと考えてるよ」

送信。

既読は、すぐについた。

家までの八分を、歩いた。

私はまだ、辞めるとも残るとも決めていない。

でも今日、決める人を決めた。

私だ。

(第5話「3月の私に、任せる」に続く)

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