夜勤文庫はたらく看護師さんの物語3
← 本棚へもどる

私、辞めてもいいですか

1

検索履歴を、消した夜

読了 約9毎週金曜 朝6時語り: カンゴさんフィクション

夜勤明けの、朝5時12分。

Xで引用

カーテンの隙間が白み始めた部屋で、私は靴下も脱がずにベッドへ倒れ込んだ。

Xで引用

白衣は洗濯機に入れた。ポケットのメモも、ナースウォッチも、ペンライトも出した。なのに、夜勤の音だけが体の中に残っていた。ナースコールの電子音。モニターのアラーム。主任の「ゆいちゃん、ちょっといい?」という声。

スマホを握ったまま、私は検索窓に打ち込んだ。

Xで引用

「看護師 辞めたい」

Xで引用

検索ボタンを押す。ずらりと並ぶ、知らない誰かの悲鳴みたいな記事タイトル。それを2つ、3つ、読むでもなく眺めて——私は、検索履歴を消した。誰に見られるわけでもないのに。

Xで引用

消した瞬間、母からLINEが来た。

Xで引用

「夜勤おつかれさま。看護師は安定しててええね」

Xで引用

私は返信欄に「うん」と打って、送れなかった。

Xで引用

3年目になった。

Xで引用

仕事は、できるようになったと思う。少なくとも、そう見えるようにはなった。

Xで引用

後輩の指導がついて、委員会がついて、リーダー業務がついて。急変対応のあとに家族説明の準備をして、記録を残して、明け方に転倒リスクの申し送りを書き直して。気づけば、定時で帰れた日のほうが思い出せない。

「ゆいちゃんがいると助かるわ〜」。その言葉が嬉しかったのは、いつまでだったんだろう。「助かる」は、いつのまにか「いて当たり前」になっていた。

Xで引用

いて当たり前の人は、いない日を作れない。

Xで引用

誰も悪くない。師長も主任も、いい人だ。悪い人が、ひとりもいないのに。なんでこんなに、苦しいんだろう。

Xで引用

先月、同期のあかりが辞めた。

Xで引用

送別会の帰り道、駅のホームで、あかりは少し泣きながら私に言った。

Xで引用

「ゆいは、大丈夫?」

Xで引用

「私は平気だよ」。そう答えて、笑った。我ながら上手だった。

Xで引用

本当は、大丈夫じゃなかった。

Xで引用

あかりが退職届を出した日、私はトイレの個室で求人サイトを開いた。職場から徒歩3分のコンビニの駐車場で、転職エージェントの広告を何度も閉じた。あかりのことを心配している顔をしながら、心のどこかで「先に降りたんだ」と思った。

羨ましかった。

Xで引用

その言葉だけは、誰にも言えなかった。

Xで引用

家に帰って、気づいてしまった。平気な人は、夜中に「辞めたい」って検索したりしない。平気な人は、その履歴を、消したりしない。

Xで引用

平気なふりがうまくなるほど、自分の限界だけが見えなくなる。

Xで引用

次の夜勤、深夜2時すぎ。

Xで引用

ナースコールが途切れた束の間、私は記録室で退職願のテンプレートを開いていた。

Xで引用

ファイル名は「文書1」。

Xで引用

名前の欄に、自分の名字を入れたところで、指が止まった。退職理由の欄には、何を書けばいいんだろう。

Xで引用

体調不良。家庭の事情。一身上の都合。

Xで引用

どれも嘘ではない気がした。けれど、どれも私の言葉ではなかった。

Xで引用

そのとき、背中で声がした。

Xで引用

「ゆいちゃん。あんた最近、笑うとき、目が笑ってへんな」

Xで引用

カンゴさんだった。白衣のポケットから金平糖をひとつ取り出して、机の上に、ことん、と置いた。

Xで引用

「あんた、夜中にスマホで何を検索して——何を、消した?」

Xで引用

心臓が、止まるかと思った。なんで、分かるんですか。声にならなかった問いに、カンゴさんはふっと笑った。「うちもな、消したことあるもん。45年前に、紙の退職届やったけどな」

Xで引用

カンゴさんは、私の画面を見なかった。見ないまま、隣の椅子に座った。

Xで引用

「辞めたいって検索したんやろ」

Xで引用

私は否定しようとして、できなかった。

Xで引用

「……検索しただけです」

Xで引用

「うん」

Xで引用

「本当に辞めるって決めたわけじゃないです」

Xで引用

「うん」

Xで引用

「でも、消しました」

Xで引用

声が震えた。消したことまで言ったら、もう戻れない気がした。

Xで引用

「消したら、なかったことになると思ったんです」

Xで引用
「『辞めたい』はな、思ってるだけのうちは、ひとりぼっちの悩みや。せやけど、口に出した瞬間から——それは『相談』になるんよ。相談になったら、もう、ひとりやない」Xで引用

気づいたら、口が動いていた。

Xで引用

あかりが羨ましかったこと。後輩に「大丈夫」と言いながら、自分が一番大丈夫じゃなかったこと。母の「安定しててええね」に、返事ができなかったこと。退職願のテンプレートを開いていたこと。

Xで引用

3年間、笑顔の下に積もっていたものが、深夜の記録室で、初めて言葉になった。

Xで引用

カンゴさんは途中で一度も「辞めたらあかん」と言わなかった。

Xで引用

そのかわり、最後に金平糖をもうひとつ置いた。

Xで引用

「宿題な」

Xで引用

「宿題、ですか」

Xで引用

「辞める理由やなくて、残ってる理由を書いておいで。ひとつも出てこんかったら、それはそれで大事な答えや」

Xで引用

朝になって、私は退職願のファイルを閉じた。削除はしなかった。

Xで引用

検索履歴も、消さなかった。

Xで引用

(第2話「『3年は続けろ』は、誰のため?」に続く)

Xで引用

続きが気になったら、公開通知と相談を使えます。

刺さった一文を、同じ夜勤明けの誰かへ。

Xで共有する

この話、あなたにも近いですか?

次へ 第2話

「3年は続けろ」は、誰のため?

次へ進む